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うたたね

 千と千尋の神隠しで、ハク千です。
 とろとろと蕩けそうな眠気に誘われて、ゆっくりと瞼が落ちる。強張った体から力が抜けて、頭の芯が融ける。頬に髪がかかっていても、もう動けない。
うとうととまどろむ。穏やかに凪いだ時間。
 あれ?
 少し冷たくて優しい手が頬に触れるよ。耳に涼しい声がわたしを呼ぶよ。凪いだはずの時間に漣が立って、眠りの膜が解けていくよ。
 わたしを起こすのは、だあれ?






 指先を濡らす水滴に気がついて、彼女は浅い眠りから覚めた。
 閉じた瞼の内から感じられる光は、真昼の勢いを失ってか弱く、開け放した庭から吹いてくる風が、少し涼しく感じられる。おそらく、今は夕暮れ時。漆黒の夜が訪れるまでの猶予は、後ほんの僅か。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。最後の記憶は、昼ご飯を食べ終わったところだった。
 小さな動きですら億劫がる身体を叱咤して、彼女は重い瞼をこじ開けた。予想通りの赤みを帯びた陽射しが、視力の落ちた目に差し込んでくる。首を廻らせると、すぐ側に彼がいた。布団に寝たままの彼女の手を額に押し当て、祈るように握り締めている。
 少しひんやりしていて、優しい手。
「千尋・・・・・・・」
 幾年経とうとも変わらない、耳に涼しい声で名を呼ばれて、その心地良さに彼女は淡く微笑んだ。


「目が覚めたのだね。喉が渇いていないかい?」
 その言葉で喉の渇きを自覚した彼女は、小さく頷いた。すると、目元を拭った彼は、枕元に用意していた湯飲みを見つめ、形の良い長い指でそっと触れた。次の瞬間、空っぽだったはずの湯飲みには水が満ちていた。狭い水面に、沈み行く赤い太陽が映っている。
彼女が、涼水に満ちた湯飲みを手に取るために身を起こそうとすると、その動きを察した彼は、すぐさま手を貸してくれた。背中にそっと手を当てて半身を起こさせ、もう片手で夕陽を閉じ込めた湯飲みを渡してくれる。
彼はいつもそう。彼女の望みを全て叶えようとする。
どれほど些細なものであっても、彼女の願いを独り占めしたいのだ。だから、長い年月、彼は飽くことなどなく、少しの時も弛まずに彼女を見つめ続けてきた。言葉よりも早く望みを察しようと。
 その彼が与えてくれた透明な水は、舌に甘く喉に優しかった。衰えた彼女の全身に、力が染み渡るよう。喉を厚く塞いでいたつかえが、取れた気がした。
 水の心地良さに感嘆しながら彼に湯飲みを返すと、彼はいつかと同じ台詞を紡いだ。
「千尋が元気になるように、まじないをかけたのだよ」
 変わらない、愛おしげな眼差し。
「ありがとう、ハク」
 黄昏時の弱い光であっても誤魔化せないほど年老いて、かつての張りを無くした自分の手を視界の端に収めつつも、それでも、遠い昔と同じ気持ちで、同じ台詞を彼女も紡いだ。
「礼などいらないよ。私は、千尋のもの。そなたに私の全てを与えると約束したであろう?」
 それは、何十年も前に為された婚姻の誓い。偽りを述べる術を持たぬ彼が紡いだ、真実の言葉。
 初めてこの言葉を聞いた時、彼女がどれほど嬉しかったか、どれほど幸福であったか、それは言葉にできるものではない。  
 それからも、彼は幾度となく同じ台詞を口にしたが、その度に彼女の胸を満たす喜びは、いつまでも新鮮さを失うことは無かった。
 だから、今も嬉しい。幾多の皺が刻まれた頬が、綻ぶのがわかる。 
「そうだったね」
 彼女は思い出す。彼が与えてくれたたくさんの優しい思い出。ずっと尽きることの無い真心。
 たくさんの苦しみも哀しみも、彼がいてくれたおかげで耐えることができた。彼が与えてくれた幸福は、数え切れない。
 彼の伴侶として過ごした日々に、何の後悔も無かった。痛みや苦しみが無かったなんて言わないけれど、今の彼女は、それすら愛しむことができる。
 よき生であったのだ。
 その生の傍らにあり、支えつづけてくれたことに感謝を込めて、彼女が彼を見つめた。
 再び空になった湯飲みを傍らの畳の上に置いた彼は、しかし、見つめる彼女から視線を外した。ただ、先刻までと同じように、強く彼女の指を握り締める。彼女に痛みを与えないように配慮しつつも、けして彼の手からすり抜けていかないように。足音を隠して忍び寄る夜に怯える子どもが、母の手に縋りつくかのように。
 強く、強く。
「・・・・・だから千尋、お願いだから、私に与えさせておくれ」
 それは、先ほどの誓いと同じで違う、彼の願いだった。浅ましく、妄執に塗れた、醜い彼自身のための願いだった。どれほどの月日を経ようとも、何を見、何に触れようとも、真の意味で清く気高かった彼女に、そぐわない願いだ。それを知りつつも、彼は、震える声で願った。
 ふいに、太陽が雲の陰に隠れ、部屋は一層暗さを増した。茜色の太陽ですら、自らを恥じるように顔を背けて彼女の傍らに跪く愚かな竜を、見るに耐えなかったのかもしれない。
 その願いがどれほどに醜悪であろうとも、真摯ではあったのだが。
「ダメだよ」 
 あっさりと告げられた拒絶の言葉に、彼はびくりと身を震わせた。同じ台詞を何度も聞いているはずなのに、彼はいっこうに慣れることが出来ないらしい。白皙の美貌を引きつらせて彼女を見つめた彼に、彼女は小さく首を振ってみせる。
彼女は、彼が何を求めているかをわかっていた。これまで、幾度と無く同じやり取りを繰り返したのだから。
 そして、この時も、彼女はこの懇願に否と言うことができた。涙まで浮かべた最愛の相手の必死の願いに、否と。
 否と答え続けるのは、己が残酷で執着が強すぎるためであると彼女は正しく理解していた。が、同時に、否と答え続けたことが彼女の誇りでもあった。
 それこそが、彼の傍らに立ち続けることを、自分に赦せた理由なのだから。
「ずっと、そう言ってるでしょ?ダメだよ。例え、死んでも」  
 「死」の一言に、彼ははっきりと顔を青ざめさせ、息を呑んだ。夜が近づくに連れ、色彩を手放し影のみになろうとしつつある庭の木々が、突風に吹かれた。彼の感情が大きく振れたせいだろう。
 その彼の反応で、彼女はうすうす感じていた事実を、はっきりと認識した。
 柔らかく、微笑む。
「ハク、わたし、もうすぐ死ぬよ」
 静かに、呟いた。


 風の音。虫の声。池の鯉が水面を叩く音。
それから、弱々しい自分の心音。
 静けさを更に深める音だけが、空間に満ちる。
 そこには、眩暈がするほどの動揺も、息が止まるほどの驚きも、胸を刺すような哀しみも、何も無かった。
 彼女の胸の中のせせらぎは、確実に迫り来る最期の時を知りながらも、濁り無く、静かに澄んでいた。
 自分自身で驚くほど。
「そのような悪しき言霊を用いてはいけない!千尋は死んだりしない!」
 彼女の静けさとは対照的に、激しく動揺した彼は、小刻みに震える腕を伸ばして、配慮も忘れて、強く彼女を抱きしめた。いつの間にやら足下に迫りつつある夜から、彼女を覆い隠すように。
 そんなことをしても無駄なのに。
 開け放たれた庭から吹き付けてくる風は、肌寒さを感じさせるものとなり、木々の隙間から差し込む陽光は、ぼんやりと儚く、東の空には、白い月が昇っている。
 夜が、近づきつつあるのだ。
「ハク、嘘がヘタ」
 彼女は、少し困った顔をした。
 その何もかもを承知した様子に言葉を封じられた彼は、それでもなお、頑是無い子どものように首を振り続けた。
 わかっていた。
 神として長き年月を過ごし、数多の人の死を見送った彼は、わかっていた。
 人である妻が、いずれ死を迎えることくらい、わかっていたはずだった。
 わかっていたはず、だったのに・・・・・・・・・
「ねえ、泣かないで?」
 彼女よりも遥かに年上であるはずの彼は、彼女の肩にしがみつくようにして翡翠の瞳から涙を零す。
 人ならざる彼は、本来なら醜悪になるはずの泣き顔すら美しく、彼女は見惚れてしまう。長い睫毛を濡らす涙に、胸が締め付けられる。当然だ。彼女のために流された涙なのだから。
 この涙を嬉しがる彼女は、自分は残酷な人間なのだろうと思う。酷い人間に違いないと思う。
 そして、なんて幸福な人間なのだろうと思う。
 重い腕を動かして、強張る指を伸ばして、彼の頬を伝う涙を拭う。
「泣かないで」
 遅くとも後数日、早ければ今夜にでも、自分はこの世界を去るだろう。それは、人として生まれた自分に課せられた理であり、既に受け入れたことでもある。けれど、幼子のように泣く彼を残していくのは忍びなかった。
「・・・・・この涙を止めよと言うのなら、私に与えさせておくれ。神の命を。それが叶わぬならば、私も共に逝かせておくれ」
 愚かな竜は、先刻拒否されたばかりの願いを、またも繰り返した。彼女の瞳を、どれほど時が経とうと変わることが無かった真っ直ぐな眼差しを受けとめて、彼女を見つめた。
 彼は、諦めることができなかった。彼女との別離を受け入れることなど、到底できなかった。
彼は一度、守るべきであった己の分身を亡くしたことがある。その時味わったものは、凄まじい喪失感。目も眩む衝撃。昏く深い穴に落ちていくかのような絶望。世界が色を亡くし、音を亡くし、匂いを亡くし、温もりを亡くす、あの厭わしい感覚。
その痛みは、彼女と再会し真名を取り戻したことによって、癒されたはずだった。なのに、今また、再び、空漠が彼を飲み込もうとしていた。 
だから、最愛の彼女を亡くして後など、存在していたくなかった。彼が今ここに在るのは、全て彼女のためなのだから。
 故に、この期に及んでも、彼女を神にする許可を求めた。
愚かな竜の妻は、人の女であった。
人は、竜と同じ時を生きられない。人は、竜よりも命が短い。神々は、短い命を燃やすようにして生きる人という種を、眩くも儚い命の輝き故に愛でていたが、今の彼にとってその輝きは、ただただ恐ろしかった。
数日前から伏せり、意識の朦朧としていた彼女が、今、これほど快活な様子を見せいていることが、彼には恐ろしくてならなかった。命の灯火が、最後に明るく燃えている様を見せつけられている気が、した。 
胸に荒れ狂う不安に翻弄されて、彼は瞬きすることも出来ない。
瞬きの間に、彼女が消えてしまう気がして。
もう一度、あの喪失感を味わい、神としての永き命続く限り無為な時間を過ごしつづけなければならないのならば、いっそ彼女と共に逝きたかった。
『永遠』が、欲しかった。 


「あのね、ハク。『千尋』から、最期のお願いがあるの」
 不安げな彼を見ていることに苦しみながらも、彼女はあえて『最期』と口にした。胸が苦しく、息がしづらかった。『最期』の時は、刻一刻と近づきつつあった。
だから、どうしても、彼に伝えたかった。彼を傷つけてでも、彼に刻み付けたかった。
 彼は、一瞬、心を亡くした顔をして、それから、瞬きをした。
 息を吐き、息を吸う。深く、静かに。
 彼女の口にした言葉の痛みに顔を顰めつつも、彼は微笑もうとした。彼女の願いを叶えることが、彼の喜びであり、ここに存する意味であったから。
「・・・・・・叶えよう。言ってごらん」
 滅多に彼に願い事など言わない彼女が、今、願ってくれることが嬉しかった。死の呪いをかけられた時よりも激しく痛む胸など無視して、彼は、ただ、自分が必要とされている喜びを味わうことに集中した。そうでもしないと、この体が砕けて消えてしまいそうだった。
 太陽はもう、山の端に隠れてしまった。今、世界を照らすのはその残光。
 振り返ればすぐそこに、夜がいる。
 夕日の最期の一滴が、大地に注がれた。
 つかの間、池の水面が煌く。
「もうすぐ、わたしは眠る。ああ、哀しまないで。うたたねをするようなものだから。ちょっとのあいだ、寝てしまうだけのことよ」
 彼女は深く息を吸った。どうか声が震えないように、と祈った。まだ自分の中に残されているはずの力に、命に祈った。
「だからね、起こしに来て欲しいの。世界のどこかでうとうと寝ているねぼすけなわたしを、起こしに来て欲しいの。これから、何度でも」 
 ゆっくり、ゆっくり。
彼に刻み付けるように、彼女は話した。声が震えなかったことに安堵した。
彼は、驚いた顔をしていた。
 これが、『千尋』としての『最期』の願いだった。
 昔、彼女は、神である彼から、人は転生するということを教わった。姿を変え、場所を変え、時代を変え、名前を変えても、魂は何度も世界に生まれてくるのだと。命は繰り返すのだと、聞いた。
その時から、ずっと思っていた。
 生まれ変わっても、何度でも彼に逢いたい、と。世界が変わっても、時代が変わっても、自分が『千尋』でなくなっても、きっと、彼に巡り逢いたい、と。
 だから、我儘な願いを紡いだ。永遠を手にした彼を束縛する、愚かな願いだ。
 けれど、それでも、心からの願いだった。
 彼女は自分が人間であることから逃げたくなかった。人間の自分だからこそ、神の彼に出会えたのだ。だからこそ、愛し愛された。
 人でなければ、彼の河で溺れたりせず、彼に助けられたりせず、彼と再会することもなかっただろう。彼の力になれたこと、彼に望まれたこと。全てが彼女の誇りだった。己の歩んできた道を、最期のこの時に振り返って、それで「是」と言える。
だから、彼と自分が同じであることよりも、違っていることに、彼女は意義を見出した。
 永き命持つ神である彼に、新しい風を、永遠と対なる一瞬を与え続けるのが、彼の妻たる彼女の存在意義だと、信じた。
「叶えて、くれる?」
 だから、彼女は願った。
「・・・・私で、いいのか?」
 彼は信じられなかった。彼女が、短い命を持つ人の子である彼女が、『最期』に彼を欲しがってくれるなんて、思いもよらなかったから。
 腕の中にいる彼女の顔を覗き込む。 
「うん。琥珀がいい。琥珀じゃなきゃ、嫌だ」
 彼女の願いは、彼とは違う形の『永遠』だった。神たる彼にしか、叶えられない願い。
彼の中を満たしていた哀しみと同量の喜びが、こみ上げてきた。
 太陽は既に沈み、風は冷たさを増し、夜が世界を支配した。けれど、夜に怯える必要は
もう、ない。
 いらない。
 『永遠』を手にした彼は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、誓おう。ニギハヤミコハクヌシの名において、とこしえに」  
「・・・・・嬉しい」 






 それが、『荻野千尋』の最期の言葉だった。
 最期の願いを紡いで眠りについた彼女は、そのまま目を覚ますことなく、朝が訪れるより早く、この世界より去った。
 全ての熱を失った妻の亡骸を大地に還した彼は、黎明の空を見つめながら、小さく腕を振った。瞬きするほどの間に、妻と共に暮らした家が、消え失せる。
 いつの間にか、出会ったその日の少年の姿に戻った彼は、空っぽになった手をきつく握り締め、呟く。
「・・・・・きっとだ」
 そして、白い竜は琥珀色の朝焼けの世界に飛びたった。
 うたたねをしている彼女を、起こすために。
 


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